見せかけの日本史

はじめに

以前、「リベンジの日本史」で「必殺仕事人」というドラマを紹介しました。この作品は主人公が法で裁けない悪者を成敗する話です。
主人公の中村主水は昼間はしがない役人で、「昼行灯」と揶揄されています。しかし夜は「仕事人」として活躍しています。

中村主水のように、馬鹿や無能に見せかけるというのは立派な戦術です。事実、『兵法三十六計』にも「仮痴不癲の計」といって馬鹿なふりをして相手の警戒心を和らげ、意表を突くという戦略があります。

日本史でも大した人間ではないように見せかけて大きなことを成し遂げた人間たちがいました。3人紹介します。

①白壁王

白壁王は奈良時代を生きた人物です。彼は天智天皇の孫でしたが、当時は天武天皇の血を引く者が代々天皇となっていました。加えて、奈良時代は血なまぐさい権力闘争が起きていました。権力闘争に皇位継承が絡んでいたため、皇族であっても失脚することがしばしばありました。
そこで、白壁王は毎日大酒を飲むことで野心がないことを示し、人々の警戒心を緩めようとしました。やがて、権力闘争の果てに天皇候補がいなくなってしまいます。そのため、白壁王が天皇となりました。
のちに、白壁王の子の桓武天皇が平安京遷都を行いました。

②武田信玄

武田信玄の父信虎は次男の信繁を愛しており、信玄を廃嫡しようと考えていました。そのため家臣も信玄のことを侮っていました。
そこで、信玄はわざと落馬して土をつける、書を下手に書く、信繁に従うなど愚か者のふりをしていました。
そして、信虎が駿河国(現在の静岡県)の今川氏のもとへ向かい甲斐国(現在の山梨県)を離れた際、信玄は父の帰国を許さず追放してしまいます。
こうして信玄は武田家の当主となり、甲斐国を支配しました。

③大石内蔵助

彼の主人だった赤穂藩主の浅野内匠頭長矩は江戸城の殿中で吉良上野介に斬りかかってしまいます。その結果、浅野は切腹し、浅野家は取り潰されます。大石ら家臣は牢人となってしまいました。けれども、吉良はお咎めなしでした。
そこで、大石らは主人の仇を取るため、表向きは無能を装い、裏では仲間達と討ち入りのための準備を進めました。
こうして1703年の12月14日、大石ら47人の赤穂浪士が吉良邸に討ち入り、主人の仇を取りました。
なお、「忠臣蔵」は美談として語り継がれ、現在では12月14日になると、時代劇の「忠臣蔵」が放送されるようになっています。

おわりに

よく「見た目が9割」と言われるように人は目に見える部分(見た目や言動)で判断しがちですが、目に見えるものだけが全てではないですね。

参考文献・参考サイト

守谷洋
『兵法三十六計』(三笠書房、2014年)
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岡谷繁実著 北大路健 中澤恵子訳
中澤恵子訳 『名将言行録 現代語訳』(講談社、2013年)