父の日本史
はじめに
明日6月16日は父の日ですね。この日は父親に日頃の感謝を伝える日です。
そこで今回は3人の人物の、父親としてのエピソードを紹介します。
①黒田官兵衛
黒田官兵衛は戦国時代、軍師として活躍した人物です。
「うまくいかない時には」でも黒田官兵衛を紹介しました。
そんな官兵衛には長政という息子がいました。
ある時、長政が敵と戦って大敗してしまいます。長政は悔しさのあまり夜具を覆ってふて寝します。
そこで、官兵衛は長政の腹心の家臣を通じ、「弱敵こそ、戒まなければならない」とふてくされる長政を戒めました。
また長政が一揆軍と戦った時のこと、長政は散り散りになっている敵をなおも追いかけようとします。
そこで、官兵衛は長政と対面し、「若い者は懲りなければ思慮分別がつかない。最後の勝利のためにどうするべきか考えるべき。良将は軽はずみなことをしないから最後は勝利するのだ」と長政を諭しました。
ここから、子の良い時も悪い時もよく見ている姿が伝わりますね。
②真田昌幸
真田昌幸は戦国時代の武将です。自分の領地を守るため、北条や徳川相手にも戦った人物です。
昌幸の息子の1人が、かの有名な真田幸村です。
関ヶ原の戦い後、昌幸・幸村父子は紀州九度山に流罪となります。その地で、父子は囲碁を使って軍略を練っていました。
ある時、死期を悟った昌幸は幸村に対し、「豊臣と徳川が対立したとき、豊臣が必ず勝てる作戦」を打ち明けます。
その作戦は昌幸が2万の兵を用いて迎撃、瀬田にある橋を落として徳川方の軍勢を足止めする。その後、二条城を焼き払って大坂城で籠城し、機会を見て奇襲をかけ敵の中から寝返る者が出ることを狙う、というものでした。
ただし、昌幸は「この作戦は自分がいてこそ。幸村では大野治長が信用しないからどうにもならぬ」と嘆きました。
結局、昌幸の言葉通り、大坂の陣では大野治長が幸村ら浪人を活用しきれず、豊臣は滅亡してしまいました。
ここから、子や豊臣の行く末を案じる姿が伝わりますね。
③勝小吉
勝小吉は勝海舟の父親です。彼は刀剣の鑑定を行なっていたほか、ブローカーや露天商の親分などアウトローな事もしていました。
その後、アウトローな世界から足を洗うと、人の世話に骨を折る生活を送っていました。
そんなある時、海舟が野良犬に急所を噛まれ、命に関わる重傷を負ってしまいます。泣き騒ぐ海舟に対し、小吉は太刀を抜いて「痛いと叫ぶなら斬るぞ」と言って脅しました。
ここだけ見ると酷い父親のように見えますが、彼は金刀羅祠に裸足でお参りし、彼の無事を祈り続けていました。
その甲斐あって海舟は快方へ向かっていきました。
ここから、厳しさと愛情の入り混じった姿が伝わりますね。
おわりに
どの話からも、子のことを考える父の姿が見えてきますね。
参考文献・参考サイト
- 森下賢一
- 『骨肉 父と子の日本史』(文藝春秋、2005年)
- 加来耕三
- 『現代語訳 名将言行録 軍師編』(新人物往来社、1993年)