ライバルの日本史

はじめに

前回の投稿では『SLAM DUNK』にまつわる話を紹介しました。
この物語は、主人公の桜木花道と流川楓を始め、数多くのライバル関係が描かれています(個人的には赤木と魚住のライバル関係もグッとくるところです)。

『SLAM DUNK』に限らず、漫画やアニメ、ドラマにはライバルが登場する作品が多いです。それはライバルがいて、互いに切磋琢磨するところに人々は感動するからかもしれません。

日本史でも、「永遠のライバル関係」と思われる人々がいました。3つ紹介します。

①清少納言と紫式部

清少納言は定子(藤原道隆の娘)、紫式部は彰子(藤原道長の娘)に仕えた女房です。
実はこの二人に面識はありません(紫式部が彰子に仕え出した頃、すでに清少納言は宮中を去っていました)。

けれども、仕えている主人の関係から二人は互いを意識していたようです。
実際に清少納言は紫式部の夫を『枕草子』で酷評しており、一方の紫式部も清少納言のことを利口ぶっていると批判していました。

面識がなくてここまでお互いを意識していたとなると、実際に面識があったらどうなっていたことでしょう。

②武田信玄と上杉謙信

武田信玄は「甲斐の虎」、上杉謙信は「信濃の龍」と称された戦国大名です。両者は何度も川中島で戦いました。けれども、お互いに相手を認めていました。

実際に武田信玄は亡くなる間際、上杉謙信は義人で、天下に肩を並べる者はいない、彼に国を託せば安心だと言っていたようです。

一方の上杉謙信も信玄が六分の勝ちを完全な勝利とみなすところは自分は及ばないところだ、言っていたようです(なお、上杉謙信は武田信玄の死を知るや、三日間は音楽を禁じて彼の死を悼み、信玄の後継者である勝頼の領地に出兵しませんでした)。
これぞ絵に描いたような「ライバル関係」ですね。

③大隈重信と福澤諭吉

大隈重信は早稲田大学の、福澤諭吉は慶應義塾の創設者です。「早慶戦」という言葉もあることから世間ではこの二人がライバルのように思われがちです。確かに、両者は会うまでは互いをよく思っていなかったものの、一度何かの会合で出会い、膝を突き合わせると目指す方向が同じだと気づき、仲良くなったそうです。

例えば、大隈重信の部下の矢野文雄(大隈が政府に提出した国会開設の意見書の創設者)・尾崎行雄・犬養毅は慶應の出身者です。

また、大隈は明治十四年の政変(大隈重信が明治政府から追放された出来事)の後、東京専門学校(現在の早稲田大学)を創設しています。その開校式には、福澤諭吉も出席していました。

さらに、大隈は福澤が亡くなった際にお悔やみの花を届けました。供花は一切受け取らないことにしている、という福澤家の受付に対し、大隈の使者はこの花は大隈が丹精込めて育てたものであること、福澤の死を聞いた大隈が涙ながらに整えたものであることを伝えました。受付は感謝とともに花を受け取りました。

大隈重信と福澤諭吉が協力関係にあったこと、もっと広く知られて欲しいものです。

おわりに

こうしてみると、ライバルはスパイスのようなものですね。相手がいるからこそ自分も引き立てられるのかもしれません。

参考文献・参考サイト

岡谷繁実著 北小路健 中澤恵子訳
『名将言行録 現代語訳』(講談社、2013年)
佐々木克
『NHKさかのぼり日本史④ 明治 「官僚国家」への道』(NHK出版、2011年)
長谷川公一
『教科書が教えない歴史人物 〜福沢諭吉・大隈重信〜』(扶桑社、2001年)
池田勇太
『日本史リブレット076 福澤諭吉と大隈重信 洋学書生の幕末維新』(山川出版社、2012年)