井伊直弼

はじめに

写真は桜田門の写真です。1860年3月3日、大老の井伊直弼は江戸城へ向かう途中、ここ桜田門で暗殺されました。
そこで、今回は井伊直弼がテーマです。

桜田門近く。

井伊直弼にまつわる通説

「チャンスを待つ 〜雌伏の日本史〜」で紹介した通り、井伊直弼は不遇の時期を経て、江戸幕府の大老にまでのし上がった人物です。
井伊直弼は大老に就任すると、幕府が抱えていた通商問題と将軍後継問題の解決に乗り出します。勅許(天皇の許可)を得ずに日米修好通商条約を結び、14代将軍を徳川慶福(のちに家茂)に決定しました。井伊直弼はこれらの決定に反対する勢力を安政の大獄で弾圧します。けれども、1860年に桜田門外の変で暗殺されました。

ここまでが井伊直弼の通説でした。しかし近年では、井伊直弼の評価は改められつつあります。

①井伊直弼は開国に慎重だった

勅許を得ずに日米修好通商条約を調印したところから、井伊直弼は「開明派」のイメージが強いように思えます。
しかし、井伊直弼は国学の影響を受けており、天皇や国土は神聖なものだと考えていました。
そのため、井伊直弼は開国に慎重な姿勢をとっていました。

②幕府内の意見は開国で固まっていた

幕府は諸大名に対し、条約の締結に関するヒアリングを行なっていました。その結果、大半は開国に賛成していました(消極的なものも含む)。国内はすでに条約締結が前提だったのかもしれません。

③井伊直弼は朝廷を軽視していたわけではない

実は勅許を得ずとも日米修好通商条約を締結すべしと考えていたのは他の譜代大名たちでした。井伊直弼は天皇の勅許を待つべきだと慎重な立場をとっていました。
結局、朝廷が勅許を出さなかった(当時の天皇は外国嫌いだったと言われています)ため、やむなく勅許のないままの条約締結に至りました。

おわりに

「汚れ役」「嫌われ役」という言葉があるように、そんな役回りをやむを得ず引き受ける者がいます。
おそらく井伊直弼もそのような類の人物だったのではないかと思えてきます。
井伊直弼のとった行動は、良くも悪くも歴史を大きく動かしていきました。

参考文献・参考サイト

歴史ミステリー研究会
『昔の教科書とはこれだけ変わった! 日本史の新常識』(彩図社、2020年)
日本史の謎検証委員会
『最新研究でここまでわかった 日本史通説のウソ』(彩図社、2021年)
井上勝生
『開国と幕末変革 日本の歴史<18>』(講談社学術文庫、2009年)
大津透 桜井英治 藤井譲治 吉田裕 李成市編
『岩波講座 日本歴史 第14巻 近世5』(岩波書店、2016年)