参勤交代

はじめに

前回は徳川家康について紹介しました。今週も引き続き、江戸時代のネタを紹介します。今回のテーマは参勤交代です。

参勤交代の通説

参勤交代は江戸幕府3代将軍、徳川家光によって制度化されました。大名の妻子を人質として江戸に置いた上で、大名に対し1年おきに江戸と国元を往復させ、大名の経済力を削りました。一方、大名にとって参勤交代は自らの権威を示す機会だったため、大名行列は厳粛に行われました。
以上が参勤交代の通説でした。しかし最近ではこの通説が疑問視されています。

①参勤交代の時期は異なる

一般的には1635年に参勤交代が制度化されたと言われています。しかし、この時参勤交代が義務付けられたのは外様大名だけです。譜代大名や旗本は江戸にいました。譜代大名にも参勤交代が義務付けられるのは1642年のことです。

②参勤交代の実態

参勤交代の陣容、日程、規律などはアバウトで、締まりのないものでした(もっとも、規定の期間に到着しないと処罰されるようですが)。

実際のところ、「立派な」大名行列は宿場町など大勢の見物人がいるときだけで、それ以外のところでは行列も崩れがちでした(数百〜数千人が移動するとなるとそれもそのはずですね)。
さらに、大名の中には行列を立派に見せるために、人を雇って大名行列に参加させる者もいました。

③参勤交代の真の目的

参勤交代に伴う滞在費や往復費用によって大名の経済力が圧迫されたのは結果論に過ぎません。参勤交代の本当の目的は外様大名に対しては大名の序列化を図るため、譜代大名に対しては国元の経営を行わせるためでした。

家康〜家光の時代、将軍は権威を示すため、大名にさまざまな負担を課しました。大名はその費用を調達するため、国元の農民たちから厳しく年貢を徴収します(大名の中には年貢を払えない農民を拷問する、家を壊す、祭司を人質に取る、など強硬手段に出る者もいました)。

そうした中、寛永の飢饉が発生します。この飢饉が原因で餓死者が出るところもありました。当時、武士の収入は農民が納める年貢に依存していましたため、この状況はピンチです。そこで、大名に定期的に国元に戻らせることで、国元の経営を行わせようとしました。

おわりに

参勤交代は人間味のある側面もあったようですね。

参考文献・参考サイト

歴史ミステリー研究会
『昔の教科書とはこれだけ変わった! 日本史の新常識』(彩図社、2020年)
『歴史人』2022年11月号
(ABCアーク、2022年)
歴史探偵
「参勤交代」(2021年3月31日放送)