総復習! 蔦屋重三郎 その1
はじめに
早いもので今年の大河ドラマ「べらぼう」も残り数回となってきました。
そこで、今回から3回に分けて蔦屋重三郎の生涯を改めて取り上げていきます。
喜多川歌麿や東洲斎写楽をプロデュースし、「江戸のメディア王」と称された男の生涯を確認していきましょう(史実とドラマで違うところがあります。あらかじめご了承ください)。
蔦屋重三郎の誕生
蔦重こと蔦屋重三郎は寛延2(1750)年に吉原で誕生します。本名は柯理(からまろ)と言いました。
蔦重が7歳のとき、両親が離別します(大河ドラマでは母親が蔦重を捨てた真意を髪を結いながら話していましたね…)。この際、蔦重は蔦屋という商家に養子に入ります。
ここに、のちのエンタメ王となる「蔦屋重三郎」が誕生しました。
吉原という場所
蔦重が育った吉原とは、江戸幕府から遊女商売を公認された遊郭です。
元和3(1617)年、江戸幕府は遊女屋の庄司甚右衛門に対し江戸市中の遊女屋を集めて遊廓を建設することを許可します。幕府にとっては取り締まりや不審者の摘発に役立つというメリットがあったためでした。
そこで、翌元和4(1618)年、日本橋の葺屋町(現在の人形町付近)の東側に隣接した約2町(220m)四方の土地に遊郭が作られました。
その後、明暦3(1657)年ごろ、吉原は浅草寺裏手の日本堤(現在の台東区千束)に移転します。
江戸の人口増加によって風俗の乱れが拡大することを懸念していた幕府から日本堤への移転を命じられたこと、前年に明暦の大火(江戸城一帯が焼ける大火事)が起こり、江戸幕府が城下の建物をできる限り郊外に移転させていたことが関係しています。
吉原は遠方に移転した代わりに大規模化します。
東西は180間(355mくらい)、南北は135間(266mくらい)、面積は2800坪に達しました。
吉原の中には廓を訪れる客のための飲食店が多数並んでいました(「べらぼう」では蔦屋のそばにもお蕎麦屋さんがありましたね…)。
また、揚屋や引手茶屋といった客と遊女を仲介する店もありました(蔦重が養子に入った蔦屋もおそらくは遊女を引き合わせる役目を果たしていたと考えられます)。
ただ、吉原は単なる歓楽街ではありませんでした。
「俄」と呼ばれるイベントが開催されたり(この時は女性や子供も吉原に入ることができます)、仲之町には季節の花々が植えられたり(特に有名なのが桜で、散り始めたら全て根こそぎ抜いてしまう徹底ぶりでした)、人々を楽しませる工夫をしていました(しかも無料で)。
そのため、地方から江戸に来た男性の観光スポットのようになっていました(当時は見学に来る観光客や転勤・出張族も多かったようです)。
さて、蔦重は吉原という地の利を生かし、遊女屋とコネクションを持ち、やがて出版産業に参入していきます。
出版界への参入
安永元(1772)年、蔦重は吉原の玄関口である五十間道に「耕書堂」という書店を開きます。
そして翌安永2()1773)年には、「吉原細見」(吉原を訪れた客のためのガイドブック。遊女屋やそこにいる遊女、イベントの情報などを掲載していました。元々は鱗形屋という版元が出していました)の販売を開始します。
さらに翌年には版元としての活動を開始し、7月に『一目千本』(花のイメージに合わせ妓楼や花魁を紹介した本。客への贈答用の書物でした)を出版、同じ頃『吉原細見』の出版にも参入します(折しも鱗形屋が不祥事を起こし、その年の刊行ができなかったことも関係していました)。
蔦重が作った『吉原細見』は従来のものよりも見やすく、わかりやすい配置やページ数だった上に安価だったため、市場を独占しました。
また、この頃蔦重は吉原に関する出版物のほかに富本節(浄瑠璃の音曲の詞章を記した本)、稽古本(稽古用に節付けした本)、往来物(寺子屋など庶民教育で用いられた教科書)の出版にも乗り出します。
いずれにも共通するのは「浮き沈みの激しい出版業界の中で安定的な売り上げが見込めるジャンル」であることです。
ここからは蔦重の優れたビジネスへの経営手腕をみてとることができます。
やがて蔦重は天明3(1783)年に日本橋の通油町にあった地本問屋を買取り、日本橋へ進出しました。(続く)
おわりに
今回は蔦重が出版業界に参入するまでを振り返りました。次回もお楽しみに。
参考文献・参考サイト
- 安藤優一郎
- 『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』(株式会社PHP研究所、2024年)
