松平定信
はじめに
大河ドラマ「べらぼう」では、いよいよ松平定信の出番がやってきますね。
この松平定信、蔦重にとって因縁の相手となります。
そこで、今回は教科書に載らない松平定信の実態を紹介します。
松平定信とは
松平定信は御三卿の一つ、田安家のもとに生まれます。ちなみに徳川吉宗の孫にあたります。
そのため、本来なら将軍になる可能性もありましたが、白河藩松平家に養子に入ります。
その後、天明の飢饉の際、藩内で餓死者を一人も出さなかった功績から老中に抜擢され、寛政の改革を行います。
ただし、当初こそクリーンな政治を求めた民衆から支持されたものの、綱紀粛正をやりすぎて次第に民衆の不満は高まります。
最終的には、尊号一件(当時の天皇だった光格天皇が父の閑院宮典仁親王に太上天皇号を送ろうとしたことに端を発する朝廷と幕府の対立。折しも、当時の将軍徳川家斉は父の一橋治斉を大御所として遇そうとしていたことから定信は家斉とも対立することになりました)によって老中を辞任しました。
ここまでが教科書でよく扱われる松平定信の姿です。
けれども、教科書ではあまり知ることのない側面があります。
①政策的には田沼政治を継承
松平定信の政治は「田沼政治(重商主義)からの脱却」と言われることが多いです。
けれども実は、田沼政治を継承している部分もあります。
例えば、定信は運上・冥加(営業税の一種)の廃止を宣言したものの、実施されたのはごく一部でした
また、富裕な町人を政治に登用し、米価の調整や金融政策を行っていました。
田沼政治からの刷新感を出すために、田沼が悪者にされた節がありました。
②実は文化人
寛政の改革では出版統制を行っていた松平定信でしたが、実は文化人でした。
定信は青年期に水野為長から和歌を、狩野栄川院(幕府の御用絵師)から絵を学んでいました。
また、絵師を動員して絵を描かせており、その中には谷文晁や亜欧堂田善といった当代きっての画家もいました。
さらに老中退任後、「近世職人尽絵」や「吉原十二絵詞」(吉原の1日を表した作品)の制作を大田南畝や朋誠堂喜三二、山東京伝、北尾政美に依頼しています。
今あげた人物たち、実は寛政の改革では要注意人物と見られた人物でした(山東京伝に至っては処罰されているし…)。
本当は文化人として、彼らの才能を買っていたのかもしれませんね。
③自分大好き?
そんな文化人だった松平定信は、遊び心もあったようです。
定信の自伝は『宇下人言』というタイトルですが、この漢字を組み合わせると「定信」になります。
遊び心があると言うべきか、はたまた自己顕示欲が強いと言うべきか…。
おわりに
「べらぼう」ではどのような松平定信として描かれるのでしょうか。
参考文献・参考サイト
- 車浮代
- 『蔦屋重三郎と江戸文化を創った13人』(PHP文庫、2024年)
- 安藤優一郎
- 『蔦屋重三郎と田沼政治の謎』(PHP研究所、2024年)