蔦屋重三郎が関わった人物 Part.1
はじめに
大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」が始まりましたね。
初回のシーンには度肝を抜いた視聴者も多かったことかと思います。
ここから蔦屋重三郎は、さまざまな作家・絵師・狂歌師と出会い、江戸の出版文化を盛り上げていくことになります。
そこで今回は、蔦屋重三郎が関わった作家を紹介していきます。
黄表紙・洒落本とは
蔦屋重三郎が手がけた出版物には、黄表紙と洒落本があります。
黄表紙とは江戸時代に流行した大人向けの絵入り小説のことです。表紙の色が「黄色」だったことからこのように呼ばれます。
内容にはユーモラスなものから当時の社会や風俗・風刺を交えたものまでさまざまありました。
一方、洒落本とは江戸の遊里(吉原など)を舞台に、遊女や遊客を題材とした小説です。「通」や「洒落」をキーワードに、男女の対話形式で話が進んでいきました。
蔦屋重三郎はこれから紹介する作家たちに黄表紙や洒落本を書かせ、出版文化を盛り上げました。
①朋誠堂喜三二(ほうせいどう・きさんじ)
朋誠堂喜三二は本名を平沢常富(ひらさわ・つねとみ)といい、その正体は出羽国秋田藩士と立派な武士です。江戸留守居役として他藩と吉原などでの接待を通じて交流関係を築く一方で、作家として活動もしていました。
朋誠堂喜三二は1733年の『当風風俗通(とうふうふうぞくつう)』という作品で作家デビューを果たします。
ちょうどこの頃から蔦屋重三郎とも接点を持つようになり、『吉原細見』の序文を任されました。
ところが、1788年に手がけた『文武二通万石通(ぶんぶふたみちまんごくどおし)』という作品が幕府を批判しているとされ、藩主から呼び出しを受けてしまいます。
その結果、朋誠堂喜三二は作家としての名を捨て、以後は狂歌の活動のみに専念しました。
②恋川春町(こいかわ・はるまち)
恋川春町は本名を倉橋恪(くらはし・いたる)といい、その正体は駿河藩小倉藩士とこちらも武士です。朋誠堂喜三二同様に武士でありながら作家としても活動していました(さらに絵も学んでいました)。
恋川春町は『金々先生栄華夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』という作品でヒットします。すると蔦屋重三郎はこの人物にも目をかけ、専属作家という形で多くの作品を世に送り出します。
ところが、『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』という黄表紙が幕政を批判しているとして、恋川春町は松平定信から直々に出頭を命じられます。
その直後、恋川春町は亡くなりました(一説によると自殺と考えられています)。
③山東京伝(さんとうきょうでん)
山東京伝は本名を岩瀬醒(いわせ・さむる)といいます。
この人物は北尾重政(蔦屋重三郎が重宝した絵師)に弟子入りをして絵を学ぶ傍ら、黄表紙の挿絵を手掛けます。
一方で作家としての才能を持ち、『手前勝手御存商売物(てまえかってごぞんじしょうばいもの)』という作品で黄表紙デビューを果たします。
ちなみに蔦屋重三郎とは仲が良く、山東京伝は他の版元から出した出版物にも耕書堂(蔦屋重三郎の店)を出すほどでした。
山東京伝は洒落本でも多くの作品を世に送り出しますが、1791年に手掛けた『仕懸文庫(しかけぶんこ)』など3冊が幕府の出版統制に引っかかり、蔦屋重三郎ともども処罰をされてしまいました。
これによって一時は引退を考えましたが、1816年に亡くなるまで執筆活動を続けました。
おわりに
蔦屋重三郎の元には多くの作家が集まってきました。
これも蔦屋重三郎の人徳とコミュニケーションのなせる技なのかもしれません。
参考文献・参考サイト
- 車浮代
- 『蔦屋重三郎と江戸文化を創った13人』(PHP文庫、2024年)
- 安藤優一郎
- 『蔦屋重三郎と田沼政治の謎』(株式会社PHP研究所、2024年)