蔦屋重三郎

はじめに

いよいよ2025年の大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」が始まりますね。


今回の主人公、蔦屋重三郎について「誰?」となった方も多いのではないでしょうか(ちなみに日本史の教科書だと松平定信が行った寛政の改革の時にちょっとだけ登場する人物です)。

そこで今回は蔦屋重三郎について紹介します。

蔦屋重三郎ってこんな人

蔦屋重三郎は1750年に生まれます。やがて耕書堂という版元(今でいう出版社のようなものです)を立ち上げました。
そこで彼は多くの文化人とタッグを組み、出版文化を盛り上げます。しかし、寛政の改革(松平定信が実施した政治改革)によって処罰されてしまいました。
晩年は東洲斎写楽をプロデュースするなど、浮世絵にも力を入れていきました。

以上が蔦屋重三郎のざっくりとしたプロフィールです。
ここから先は蔦屋重三郎がどのような人物だったかより詳しく紹介します。

①優れた経営手腕の持ち主

蔦屋重三郎は商人として優れた経営手腕を持っていました。

彼が耕書堂を立ち上げ、出版業界に参入した際、彼はホームでもある吉原に関する本(吉原細見といって吉原のガイドブックのようなものです)や往来物(教科書)など、「確実に売り上げが見込めるもの」に手を出し、経営基盤を安定させます。

その後は攻めの姿勢に転じ、当時流行していた黄表紙(世の中を風刺する絵入りの小説)や狂歌(五・七・五・七・七で滑稽なことや社会風刺などを読んだ歌)の出版にも参入しました。

さらに、寛政の改革で政権批判が封じられ、学問が奨励されるようになると、学術書などにも手を出していきました。

ここからは彼が経営者として優れていたことがわかります。

②ブームの火付け役

当時の江戸で人気を集めたものとして、黄表紙と狂歌がありました。


そこで彼は朋誠堂喜三二や恋川春町といった人気作家をリクルートし、黄表紙市場を活性化させます。
また、本来その場で詠んで終わりだった狂歌を集めて作品集として売り出し、狂歌ブームに火をつけました(そのために自らも狂歌師になって俳号を持ち、狂歌会というイベントを実施し、絵入りの狂歌本を出版しました)。

さらに東洲斎写楽に役者絵(歌舞伎役者などを題材とした浮世絵)を描かせ、大量に市場に出回らせることによって写楽ブームを引き起こすとともに、寛政の改革で下火となっていた歌舞伎界を活性化させることに一役買いました。

このように彼は流行を見ることや流行を作り出すことに長けていました。

③名プロデューサー

彼は朋誠堂喜三二や恋川春町、山東京伝といった人気作家の作品を多く世に送り出します。

加えて喜多川歌麿、東洲斎写楽という浮世絵界の二大スターを生み出しました。

さらに晩年には見習いとして曲亭馬琴と十返舎一九を雇いました(残念ながら彼らが有名になる前に蔦屋重三郎は亡くなってしまいましたが…)。

これらの顔ぶれを見ても、彼には人を見る目があったことがわかります。

終わりに

もし蔦屋重三郎がいなかったら江戸の文化はなかったであろう。蔦屋重三郎とはそう思わせる人物です。

参考文献・参考サイト

車浮代
『蔦屋重三郎と江戸文化を創った13人』(PHP文庫、2024年)
安藤優一郎
『蔦屋重三郎と田沼政治の謎』(株式会社PHP研究所、2024年)