大化の改新

はじめに

このサイトでは以前飛鳥時代のことについて扱いました
そこで今回は大化の改新についてさらに掘り下げていきます。

かつての大化の改新

7世紀半ば、国内では蘇我蝦夷・入鹿親子が政治を主導していました。特に蘇我入鹿は紫の冠を無断でもらったり、ライバルの一族を滅ぼしたり、自宅の邸宅を「宮門(みかど)」と呼ばせたりしていました。

こうした中、645年、中大兄皇子と中臣鎌足が外交行事の最中に蘇我入鹿を倒します。その後、中大兄皇子たちは蘇我蝦夷の館を襲撃し、蝦夷を自害に追い込みました。

かつてはこの一連の出来事が大化の改新と呼ばれていました。
しかし、近年の研究により、大化の改新の実態は変わりつつあるようです。

①645年の出来事は大化の改新ではない

最近では、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼした出来事は乙巳の変と呼ばれています。

また、大化の改新とはこの事件の後に即位した孝徳天皇のもとで行われた政治改革のことを指します。
ちなみにこの政治改革のメンバーには中大兄皇子や中臣鎌足のほか、留学生(遣隋使として派遣され、そのまま唐の建国を見てきた人々)も含まれていました。

②乙巳の変≠蘇我氏滅亡

乙巳の変で蘇我氏そのものが滅んだようなイメージを持たれがちですが、そうではありません。

実は、蘇我氏の中にも蘇我倉山田石川麻呂(乙巳の変当日に行われた外交行事で天皇の面前で文書を読む係だった人物)や蘇我赤兄(中大兄皇子のライバル失脚に加担した人物)のように中大兄皇子や中臣鎌足らに協力するものもいました。


ただ、のちに彼らも失脚することになります。蘇我倉山田石川麻呂は謀反の疑いをかけられ自害に追い込まれ、蘇我赤兄は壬申の乱の際に大友皇子(中大兄皇子の子)側についたことで、乱後天武天皇(中大兄皇子の弟)によって処罰されました。

③蘇我氏は国のことを考えていた?

実は、蘇我氏の邸宅があった甘樫丘は武器庫のようなものだったと考えられています。

また、蘇我馬子の墓と言われている石舞台古墳は避難所のようなものだと考えられています。

以上から、蘇我氏は飛鳥を要塞として唐や新羅から守ろうとした、とする見解もあるようです。

おわりに

普段私たちが知る歴史は一つの側面でしかありません。
他の側面から見ると、別の景色が見えてきます。