邪馬台国

はじめに

日本史では、いまだに決着がついていない論争が数多くあります。
今回はその中の一つ、邪馬台国論争がテーマです。

邪馬台国とは

邪馬台国とは、3世紀ごろ、倭(飛鳥時代までの日本の呼び名)に存在していた国です。『魏志倭人伝』には女王の卑弥呼が統治していたことが記されています。

畿内説と九州説

ところで、『魏志倭人伝』には、邪馬台国への行き方が記されています。記述内容をもとに、邪馬台国は近畿地方にあったとする畿内説(纏向遺跡が有力視されています)と邪馬台国は九州地方にあったとする九州説(吉野ヶ里遺跡が有力視されています)が俎上に載せられています。

以下、邪馬台国論争の根拠、焦点、課題を紹介します。

①両説の根拠

畿内説は纏向遺跡内にある箸墓古墳が卑弥呼が亡くなった時期に作られたこと、遺跡からは三角縁神獣鏡や木製の仮面、日本で自生していないベニバナの花粉が見つかったいることを根拠としています。
一方、九州説は吉野ヶ里遺跡内の大規模な環濠集落や城柵、物見櫓は『魏志倭人伝』の邪馬台国の記述を想起させることを根拠としています。

②焦点

邪馬台国が畿内と九州のどちらにあったのかを考える上で焦点となるのがヤマト政権との関係です。
畿内説は邪馬台国がそのままヤマト政権になったと考えています。
他方、九州説は邪馬台国が東へ拡大し、畿内の地方勢力を吸収してヤマト政権になったと考えています。

③両説の課題

畿内説にはなぜ3世紀に纏向遺跡のような巨大な遺跡が突如登場したのか説明がつかない、という課題があります。 
一方で九州説には邪馬台国の時期の墓がこれまで出てこなかった、という課題があります。ただ、今年の6月に吉野ヶ里遺跡で邪馬台国の時代の有力者の墓が見つかりました。今後の動向を注視したいところです。

おわりに

決着がついていないからこそ、人々はロマンを感じるのかもしれません。

参考文献・参考サイト

本郷和人
『変わる日本史の通説と教科書』(宝島社、2021年)
中公新書編集部
『日本史の論点 -邪馬台国から象徴天皇制まで-』(中央公論社、2018年)