山越えの日本史

はじめに

今週の月曜日は海の日でした。この次の祝日といえば8月11日の「山の日」ですね。山の日は2016年に「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」ために制定されました。

日本で高い山TOP3、日本で低い山TOP3

ところで、日本で高い山TOP3は1位が富士山(標高3776m)、2位が南アルプスの北岳(標高3193m)、3位が同率で北アルプスの奥穂高岳と南アルプスの間ノ岳(標高3190m)だそうです。
一方、日本で低い山TOP3は1位が大潟富士(標高0m)、2位が日和山(標高3m)、3位が天保山(標高4.5m)だそうです。

「山に親しむ機会」というと夏のレジャーや秋の紅葉狩りが思い浮かびます。しかし、山は日本の歴史とも関わっていました。エピソードを3つ紹介します。

①源義経の鵯坂越え

一ノ谷の合戦の際、源義経は鵯坂を馬で駆け下り、背後から平氏を襲撃した、と『平家物語』に記されています。
ただし、最近では鵯坂越えを行ったのは源義経ではなく、多田行綱という在地の武士だったと考えられています(詳細は「エピソードの実際」を参照)。

②徳川家康の伊賀越え

本能寺の変が起きた時、徳川家康は堺を見物中でした。
本能寺の変を知った家康は、要所を明智軍に押さえられたと思い、自刃を考えるほど追い詰められます。
しかし、家臣の本多忠勝らの説得もあり家康は自刃を断念します。伊賀越えを行い、無事に三河まで戻りました。
ちなみに、伊賀越えのルートはいくつか考えられていますが、堺〜生駒山中〜宇治田原〜小川城〜桜峠〜白子〜大浜と桜峠を抜けるルートで三河に戻ったと考えられています。

③佐々成政のさらさら越え

小牧・長久手の戦いの際、佐々成政は織田信雄・徳川家康方に加担し、前田利家の朝日山城を攻撃します。
ところが、信雄は秀吉と和睦を結び、家康も兵を浜松に引き揚げます。一転して成政は窮地に立たされました。
そこで、成政は家康の説得を目指しさらさら越えを決行します。十二月(現在の一月)の豪雪の中、家臣百名ほどを連れて酷寒の立山連峰から北アルプスの大山脈を越え、家康のいる浜松城に向かいました。


なお、成政が通ったルートも諸説ありますが、一般的には立山連峰を通るルートを「さらさら越え」と言うようです。通説では富山から芦山弁寺を出て立山黒部アルペンルートの途中まで行き、弥陀ヶ原から右へ折れ、松尾峠、旧立山温泉、ザラ峠、五色ヶ原、黒部川と進み、鉢ノ木峠を経て、信州の仁科へ出るコースを通ったと考えられているそうです。

おわりに

今回紹介した人々は別の意味でも「一山越えた」ようですね。

参考文献・参考サイト

ニッポン旅マガジン
「日本の山 標高ベスト10」(https://tabi-mag.jp/mountain-top10/)(参照:2023-7-22)
ニッポン旅マガジン
「日本の低山 TOP5」(https://tabi-mag.jp/lowhill/)(2023-7-22アクセス)
『歴史人』2023年2月号
(ABCアーク、2023年)
花ヶ前盛明編
『佐々成政のすべて』(新人物往来社、2002年)