エピソードの実際

はじめに

偉人シリーズ」でも紹介していますが、歴史上の人物は数多くのエピソードがあります。
しかし、歴史上の人物の中には、世に広まっているエピソードと事実が異なっている人物もしばしばあります。3人紹介します。

有名なエピソード3選

1人目が源義経です。源頼朝の弟で「戦の天才」と称され、源平合戦で大活躍しました。義経にまつわるエピソードでは、一の谷の戦いの際、鵯坂を騎馬で駆け降りた「鵯坂の逆落とし」が有名です。

2人目が松方正義です。日本銀行の設立など、金融政策で活躍しました。松方正義にまつわるエピソードでは、子沢山すぎて明治天皇から子供の数を聞かれても答えられなかったという話が有名です。


3人目が板垣退助です。自由民権運動で活躍しました。板垣退助にまつわるエピソードでは、暴漢に襲われた時に「板垣死すとも自由は死せず」といった話が有名です。

ただし、事実は異なるようです。

①源義経のエピソードの実際

鵯坂を下ったのは義経ではなく、多田行綱という在地の武士でした。

多田行綱はもともと平家方に属していましたが、一の谷の戦いの時には義経の配下となっていました。多田行綱は摂津国(現在の大阪府と兵庫県の一部)の武士であるため、合戦の舞台となった一の谷周辺の土地勘があったと考えられます。
事実、『玉葉』という史料では、多田行綱が「山の手」から平家を攻撃したことが記されています。「山の手」には鵯坂周辺の地域が含まれていました。

のちに多田行綱は頼朝の怒りを買って所領を没収されたため、「義経が逆落としを行った」というエピソードが広まったのかもしれません(なお、逆落としの場所及び山手攻撃の将については諸説あります)

②松方正義のエピソードの実際

子供の数が数えられなかったのは松方正義ではなく、西郷従道(西郷隆盛の弟)でした。明治天皇が松方正義の子供は何人いるか質問したため、従道が指折り数えてみたものの、数えきれませんでした。そこで従道は「そろばんを拝借しなければ到底数えきれません」と答えたと言われています。

③板垣退助のエピソードの実際

板垣退助は暴漢に襲われた時、「板垣死すとも自由は死せず」と言っていません。暴漢に襲われて刺された時、呆然としていたと言われています。
そのため、かの有名な「板垣死すとも自由は死せず」という言葉は内藤魯一(板垣のそばにいた人)が発したとも、ジャーナリストの創作であるとも言われています。

おわりに

世の中に広まっていることが必ずしも真実だとは限りませんね。

参考文献・参考サイト

川合康
『日本中世の歴史<3> 源平の内乱と公武政権』(吉川弘文館、2009年)
歴史ミステリー研究会
『昔の教科書とはこれだけ変わった! 日本史の新常識』(彩図社、2020年)
近世名将言行録刊行会編
『幕末・明治名将言行録』(原書房、2015年)
大隈和雄 神田千里 季武嘉也 山本博文 義江彰夫
『知っておきたい日本の名言・格言事典』(吉川弘文館、2005年)
歴史探偵
「ヒーロー 源義経」(2022年4月27日放送)