総復習! 蔦屋重三郎 その3

はじめに

前々回前回と引き続き蔦重こと蔦屋重三郎の半生を取り上げています。
今回は寛政の改革で処罰されたのちの蔦重の軌跡をみていきましょう。

蔦重の転換

幕府からの身上半減の処罰を受けた蔦重でしたが、次の一手も打っていました。

寛政の改革では黄表紙や洒落本といった世相を風刺したり、風紀を乱すとされた作品は処罰されましたが、一方で学術書は興隆します。松平定信は文武を奨励していたためです。

そこで蔦重はこの状況を受け、学術書を出版するようになります(和算書、暦書、貨幣書、書道書、神書、仏書、和歌注釈書、文法書、儒書、心学書、俳書、随書、辞書、類書、国学書など)。
加えて、学術書などの流通を扱う書物問屋の株もゲットします(こちらは大河ドラマの中でもありましたね)。
ここからも、時流を的確に掴む蔦重の目が冴えています。

そんな蔦重が目をつけた人物が国学者の本居宣長です。
蔦重は本居宣長と対面を果たし、宣長の著作も出版するようになりました。

最後の賭け

そしてもう1人、蔦重が目をつけた人物がいました。それが浮世絵師の東洲斎写楽です。
写楽の活動期間は寛政6(1794)年5月から翌年1月までのわずか10ヶ月間でしたが、その間に蔦重は140点以上の作品を世に送り出しました。

写楽は主に役者絵を描きましたが、最大の特徴は顔のパーツがデフォルメされていることと、手の動きで心情を表す手法が用いられている点です。
蔦重は写楽の作品を黒雲母摺(雲母摺とは雲母や貝殻の粉末を用いて背景を摺り上げる手法。地の色が黒だったことから黒雲母摺と呼ばれました)で出版することで人々にインパクトを与えました。
さらに、蔦重は写楽に中堅や若手の役者を多く描かせました。そうすることで、当時経営が傾いていた歌舞伎界のテコ入れも図りました。

しかし、写楽の真に迫った描写はモデルとなった役者やファンからの反発を買ってしまいます。
そのため、写楽の作品からは次第に個性が失われ、ついに写楽自体も浮世絵界から姿を消してしまいました。

希望の種

寛政の改革後、蔦重を取り巻く環境は厳しいものでした。経営も悪化していたのか、狂歌絵本の版権も譲渡してしまいます。

しかしこの頃、前途有望な若者たちが蔦重のもとで働いていました。曲亭馬琴と十返舎一九です。
曲亭馬琴は1年ほど耕書堂で働いた後、執筆活動に専念します。蔦重は寛政5年ごろから馬琴の黄表紙や読本を出版します。

一方の十返舎一九はもともと錦絵絡みの下準備の仕事を任せていましたが、寛政7年ごろから黄表紙の出版を開始しました。

後に馬琴は『南総里見八犬伝』を、一九は『東海道中膝栗毛』を著し、化成文化を代表する作家となります。

晩年の蔦重

しかし蔦重はこの時すでに脚気にかかっていました。
寛政8(1796)年秋頃から病状が悪化しています(版権を譲渡したのもこの頃です)。
そうして寛政9(1797)年5月、蔦重は48年の生涯を閉じました。

蔦重は亡くなる当日、「自分は正午に亡くなる」と予言し、蔦重亡き耕書堂のことを指示し、妻とも最後の別れの言葉を交わします。
しかし、予言した正午になっても別れの時は来ず、次のような言葉を残します。

「自分の人生は終わったが、いまだ命の終わりを告げる拍子木が鳴らない。遅いではないか」


人生を歌舞伎の舞台に例えた、いかにも「江戸のメディア王」らしい最後の言葉でした。

おわりに

蔦重の人生はまさに舞台のように波瀾万丈の人生でした。
しかし彼が輩出した文化人や作品の名声は、今日にも伝え続けられています。

参考文献・参考サイト

安藤優一郎
『蔦屋重三郎と田沼政治の謎』(株式会社PHP研究所、2024年)