総復習! 蔦屋重三郎 その2
はじめに
前回に引き続き、蔦屋重三郎の半生を振り返っていきます。
前回は蔦重誕生から日本橋に出店するまでをみていきました。
今回は日本橋に出店後の蔦重の様子から見ていきましょう。
蔦重の飛躍
これまで堅実は手腕で経営を確固なものにした蔦重ですが、ここから「攻め」の姿勢に転じます。
黄表紙に洒落本、狂歌本といったジャンルに参入するとともに、優れた人材を発掘することで経営を飛躍的に発展させました。
黄表紙とは
黄表紙とは、庶民向けのの絵入りの読み物の一つです。表紙の色からこのように呼ばれました。
このジャンルで蔦重が発掘した人材に恋川春町と朋誠堂喜三二がいます。
恋川春町は本名を倉橋恪(くらはしいたる)と言い、その正体は武士です。
彼は職務に励む一方で、狩野派の絵師、鳥山石燕に入門し絵を学びます。
そして彼は『金々先生栄花夢』という作品を著し(文章も絵も自分で制作)、黄表紙ブームを作り出しました。
一方の朋誠堂喜三二は本名平沢常富(ひらさわつねとみ)と言い、その正体は秋田藩士とこちらもれっきとした武士です。
彼は職務の一環(他藩や幕府との折衝や情報交換を行なっていました)として吉原などに通う中で『当世風俗通』という作品を著しました(今でいうファッション誌のようなものです)。
蔦重はこの2人を専属的な作家とすることで、黄表紙市場をリードしていきます。
さらに蔦重はある人物に目をかけます。それが山東京伝です。
もとは鶴屋という別の地本問屋が京伝の著作を出版していました。
その文才に注目した蔦重は京伝に黄表紙の執筆を依頼します。
そして代表作『江戸生艶気樺焼』がヒットすると蔦重は京伝に洒落本(江戸の遊郭を舞台にした、遊女と客の掛け合いなどを描いた作品)の執筆も依頼するようになりました。
その結果、京伝は洒落本の第一人者としての地位を確立しました。
狂歌とは
狂歌とは和歌の形式(5・7・5・7・7)で世の中を風刺したり、滑稽さを描いた歌です。
蔦重は「天明狂歌の三大家」の1人と称された大田南畝(四方赤良)と交流を深め、狂歌本を出版するようになります。
当時狂歌はその場で詠み捨てられるものでしたが、狂歌本の出版をきっかけに狂歌ブームが起こります。
さらに蔦重は狂歌会というイベントを開催し、その場で詠まれた狂歌を書籍化するとともに、狂歌に絵を添えた狂歌絵本を出版することで、狂歌本の市場もリードしていきました。
喜多川歌麿との蜜月
この黄表紙や狂歌絵本の挿絵を任されたのが、喜多川歌麿です。
喜多川歌麿は宝暦3(1753)年生まれと考えられており、少年の頃に鳥山石燕に入門、明和7(1770)年に出版された歳旦帳『ちよのはる』の挿絵で浮世絵師としてデビューします。
蔦重はそんな歌麿に挿絵を任せることで、歌麿の知名度を上げていきます。
やがて歌麿は大首絵(上半身を大きく描く描き方)の手法を用いた美人画がヒットし、美人画の第一人者となります。
蔦重は歌麿の地位を不動のものにするとともに、浮世絵の市場も牽引する存在となりました。
逆境
ところが、ここで状況が一変します。
この頃、江戸幕府では老中を務めた田沼意次が失脚し、代わって松平定信が老中となったのです。
定信は田沼時代の自由な雰囲気が世の乱れを招いたと考え、風紀の引き締めに取り掛かります。人々に質素倹約を命じるとともに、武士に対して文武を奨励しました。
さらに、出版統制にも乗り出していくことになります。
当初こそ、民衆は清廉潔白な松平定信を歓迎します(田沼時代は賄賂が横行していたので)。けれども、次第に定信の思想・出版統制に辟易していきます。
このような状況に目をつけたのが蔦重でした。
蔦重の抵抗と強まる定信の統制
この頃、蔦重は朋誠堂喜三二の書いた『文武二道万石通』と恋川春町の書いた『鸚鵡返文武二道』を出版します。どちらも寛政の改革を風刺した作品です。
これらの作品は改革に不満を持っていた民衆の間でヒットしました。
ところが、定信による言論統制はさらに強化されていきます。
定信は隠密を使い、世相や自身に批判的な勢力の情報を集めていました。
そのため、朋誠堂喜三二は藩命により、執筆活動の自粛を余儀なくされます。
また、恋川春町は定信からの出頭命令が下り、その直後に自害してしまいます。
さらに、大田南畝は交流関係にあった人物が処罰されたことで身の危険を感じ、狂歌を詠むことをいったん止めてしまいます。
蔦重は次々と売れっ子作家を失ってしまいます。
加えて、寛政2(1790)年には出版取締令が出され、出版物を出す際には地本問屋や書物問屋の検閲が入ることになります。
蔦重を取り巻く環境はどんどん悪化していました。
それでも蔦重はこの状況に抗おうとします。
すでに山東京伝が執筆していた『仕懸文庫』など3作品の出版を強行します。
しかし、町奉行所からストップがかかり、『仕懸文庫』など3作品は絶版、さらに京田には手鎖50日、蔦重には身上半減という処罰が下りました。
おわりに
今回は蔦重が勢いに乗ってくところから一転して苦境に追い込まれていくまでを見ていきました。
ここまで見てみるとまさに「禍福は糾える縄の如し」だと感じさせられます。
次回もお楽しみに。
参考文献・参考サイト
- 安藤優一郎
- 『蔦屋重三郎と田沼政治の謎』(株式会社PHP研究所、2024年)
