源平合戦

はじめに

以前、歴代の大河ドラマに出てくる時代を紹介しました。
その中でも、源平合戦が出てくる作品は6作品ほどあります。

個人的な見解になりますが、源平合戦は幕末と並んで時代の転換期と言えるからなのではないかと考えます。
ということで今回は源平合戦がテーマです。

源平合戦とは

1180年、以仁王(後白河法皇の子)が挙兵します。以仁王自身は平氏の追討軍によってすぐに討伐されたものの、以仁王が発した令旨を受け取った源氏たち(源頼朝や源義仲など)が次々と立ち上げります。
平氏はこれらの勢力を抑えようとしたものの、やがて都を捨て西国へ逃げ延びます。
けれども、源義経などの源氏軍に追い詰められ、壇の浦の戦いで平氏は滅亡しました。

学校で習う源平合戦だ大体上記のような流れになっていると思います。
しかし、そこには隠れた事実があります。

①頼朝を挙兵に踏み切らせたもの

頼朝は以仁王の令旨を受け取ったから挙兵したというわけではありません(挙兵は令旨を受け取ってから2ヶ月後のことです…)。

実は、以仁王の挙兵後、頼朝と北条時政がいた伊豆国(現在の静岡県)は平氏の知行国(そこでの収入は直接平氏の懐に入る状態)になるなど、平氏の圧力が高まり、頼朝を取り巻く状況は悪化していました(令旨を受け取った者が討伐されるという噂もありました)。

そこへ、後白河法皇の院宣も届いたことから、頼朝は挙兵に踏み切りました。

②一枚岩ではなかった源氏と平氏

実は、平氏の中でも源氏と対立しなかった系統がいました。

それは、重盛(平清盛の長男)の系統です(なお、重盛自身は源平合戦が始まる前に亡くなっています)。この系統は清盛死後、宗盛(清盛の三男)が後継者となったあたりから距離を置き始めます。

そのため、壇の浦の戦いで宗盛らが入水(宗盛は捕えられますが…)し平氏が滅んでも、この系統だけは生き残りました。

一方の源氏も一筋縄ではいかず、頼朝と同等かそれ以上の力を持つ勢力がゴロゴロしていました(武田信義や源義仲など)。

そのため、頼朝は平氏との戦いを進める一方で、こうした勢力(源義仲や一条忠頼)を討伐し優位性を築いていきました。

お互いに内部にさまざまなものを抱え込んでいました。

③もうひとつの戦い

実は、源平合戦は単なる源氏と平氏の戦いではありませんでした。

当時、地方では、平氏の保護を受けている武士(大庭景親や伊東祐経など)とそうではない武士(北条時政や三浦一族、上総広常など)との間で土地をめぐる対立が起きていました。特に、後者が頼朝の元に結集しました。

つまり、源平合戦は「地方の武士たちの、土地を守る戦い」でもあったのです。

おわりに

大きなものに隠れた真実があるようです。

参考文献・参考サイト

薮本勝治
『吾妻鏡 -鎌倉幕府「正史」の虚実-』(中央公論新社、2024年)