働くオトナの日本史

はじめに

私事ではありますが、職場が変わってからというものの、朝の通勤に急行を使うようになりました。
そして毎朝、通勤ラッシュに驚かされながら日々を過ごしています。

そこで、今回は働くオトナをテーマに、明治時代よりも前の働き方を紹介していきます。

奈良時代の場合

奈良時代は律令制をもとに政治を行なっていました。国司(地方政治を行う役人)として地方に派遣される人もいれば、平城京内の役所で働く人もいました。

下級役人の中には、平城京の外に自らの根拠地を持っていた者もいたため、彼らは仕事(主に写経)が終わると休暇を取っていたようでした(もっとも、休暇が明けても戻らない者もいたようです…)。

平安時代の場合

藤原氏が政治の中枢を占めるようになると、それ以外の者(中下級貴族など)にとっては出世のチャンスがなくなります。

そんな彼らにとって国司は稼げるポストとなっていました(平安時代に入ると、国司は一定の税さえ政府に納めれば、あとは地方で何をやっても良いと認められるようになったからです)。

そのため、中下級貴族はこぞって国司になろうとし(そのために藤原氏に便宜を図ってもらったりしていました)、幸運にも国司に任命された者は地方で荒稼ぎしていきました。

鎌倉時代・室町時代の場合

武家政権が誕生すると、武士たちも政権運営に参加する、といった形で働くようになります。

鎌倉時代は一部の有力御家人(将軍と主従関係を結んだ武士のことです)は鎌倉に、室町時代は一部の有力な守護大名が京都に集まって政権運営に関わっていました。
彼らの働き方は今で例えるなら単身赴任のようなものと言えるでしょう。

安土桃山時代の場合

織田信長は、天下統一に向けて遠征を繰り返していました。
そんな信長は家臣に対し、城下町への集住を命じます。

別にこのこと自体は他の戦国大名も行なっていのたですが、信長の凄まじいところは、命令を無視して妻子を国元に残していた者に対し、領地の家を焼き払い、妻子もろとも強制的に住まわせようとしていました。

半ば強制的な兵農分離が信長軍の強さだったとも言えそうですね。

江戸時代の場合

徳川家光の時代、参勤交代が制度化されます。
そのため、大名たちは1年おきに国元と江戸を往復していました(大名が国元にいない時は、家老が国元の政治を行なっていたようです)。

ちなみに、江戸幕府の運営は譜代大名や旗本など、一部の人間が担っていましたが、幕末になって親藩や外様大名たちも政権運営に関わるようになりました。

おわりに

役人、武士といった違いはあれど、いつの世も組織の中で働くということは大変なことですね。

参考文献・参考サイト

呉座勇一
『日本中世の招待』(朝日新聞出版、2020年)
東野治之
『木簡が語る日本の古代』(岩波書店、1997年)
藤井譲治
『日本近世の歴史<1>天下人の時代』(吉川弘文館、2011年)