有言実行の日本史

はじめに

大谷翔平選手の動向が連日ニュースになっていますね(先日はパパになったと報道されていました)。

大谷選手のすごいところは、「いつまでにこうする」という人生設計を決め、時期の差はあれど着実に実現させるところにあると思います。

自分の実現したいことを言語化し、実現に向けて努力していくことが大事なのだということがわかります。

ところで、歴史上でも願望、野望、理想を言葉にすることでそれを叶えた人物がいました。3人のエピソードを紹介します。

①藤原道長

藤原道長が藤原伊周(道長の甥)と競射をしていた時のこと、伊周は的を射当てた数が2つほど道長に負けていました。

そこで、藤原道隆伊周の父)たちは伊周を勝たせようと勝負を延長させます。


延長戦の一射目、道長は「我が家から天皇や皇后が現れるなら、この矢当たれ」と言って弓を射たところ、的の中央に命中しました。
さらに二射目、今度は「摂政・関白になるのならこの矢当たれ」と言って弓を射たところ、再び的の中央に命中しました(これには伊周も動揺して、的を外してしまうほどでした)。

その後、道長は言葉通り4人の娘を天皇のもとへ入内させ、自らは内覧(関白に準じる役職。道長は関白にはなりませんでした)や摂政となって栄華を極めました。

②源義家の9代孫

源義家は亡くなる前に「我が7代の孫に生まれ変わって天下を取る」と言っていました。

ところが、7代後の足利家時の時はまだ天下を取れる状態にありませんでした。
そこで、家時は「子孫に天下を取らせよ」と言って願文に書いて自害しました。

この結果、家時から2代後の足利尊氏が室町幕府を開きました。

本当は家時の代から3代後の人物が天下を取る予定でしたが、結果として義家の子孫が天下を取ったことは紛れもない事実です。

③秀吉の野望

賤ヶ岳の戦い(柴田勝家と戦った出来事)が起こる直前、秀吉は手紙で小早川隆景に対し、「播州より西は知らないが、東においては津軽・合浦・外浜までもわれらの槍先に堪えられる者はいない」と言っています(もちろん、秀吉にそんな余裕はありません)。

また、関東の佐竹氏に対しては手紙で「四国の大半を占領し、筑前・筑後をはじめ鎮西(九州のこと)まで平定の目処が立ったので富士山を一見する余裕があるからその時に初対面と遂げようと思う」と告げています(この段階では秀吉は四国を平定しておらず、実際に対面できる余裕はありませんでした)。

けれども最終的に秀吉は言葉通りに全国統一を果たしました。

おわりに

言葉には力がある、と思わせられますね。

参考文献・参考サイト

吉本健二
『手紙から読み解く 戦国武将の意外な真実』(学習研究社、2006年)
石川徹
『新潮日本古典集成<新装版>大鏡』(新潮社、2017年)