蔦屋重三郎が関わった人物 Part.3
はじめに
今までは、蔦屋重三郎が関わった作家・絵師を紹介してきました。
しかし、実は蔦屋重三郎は意外な人たちとも関係がありました。
①平賀源内
平賀源内は日本の物理学者です。大河ドラマでは安田顕さんが演じています。
平賀源内はエレキテルを作ったり、土用の丑の日を考案した人物として知られていますが、実はこれ以外にも石綿を使って燃えない布を作ったり、西洋風の絵を描いたり、「福内鬼外」というペンネームで作家として活動したりと、マルチに活躍していました。
そんな源内に対し、蔦屋重三郎は鱗形屋版「吉原細見」の序文の執筆を依頼します(実は「吉原細見」は元々鱗形屋という版元が出していた出版物でした。しかしこの後鱗形屋が他の出版物をタイトルだけ変えて出版したことが問題となって処分されたことで、蔦屋重三郎が「吉原細見」の制作に本格的に着手することになります)。
そしてこの「吉原細見」は話題となりました。
なお、平賀源内は晩年に殺人事件を起こしてしまい、間も無く亡くなりました(そのため、この後蔦屋重三郎が手がける「吉原細見」は朋誠堂喜三二が序文を担当しています)。
②本居宣長
本居宣長は伊勢松坂の国学者です。儒教や仏教が伝わる前の日本を研究し、『国意考』や『万葉考』を著しました。
ちなみに、源氏物語の本質を「もののあわれ」という言葉で表現したのも本居宣長です。
寛政の改革後の学術ブームに目をつけた蔦屋重三郎は本居宣長と対面します。
その結果、彼の著作を耕書堂で出版できるようになりました。
③十返舎一九
十返舎一九は化政文化(江戸時代後期の文化で、特に1804〜1830年の文化・文政年間に栄えた文化です)を代表する作家です。
彼の著作には『東海道中膝栗毛』があります。
実は十返舎一九は30代の頃、耕書堂で住み込みで働いていました。その過程で作家としての才能を発揮するようになります。
そして蔦屋重三郎死後の1802年、『東海道中膝栗毛』が大ベストセラーになります。この作品を出した版元(耕書堂とは別のところです)によって全国に流通しました。
そんな十返舎一九は1831年に亡くなりました。
④曲亭馬琴
曲亭馬琴も化政文化を代表する作家です。
人によっては学校でこの人物を「滝沢馬琴」で習った人もいるかもしれません。
実はこの人物は元々武士でした。「滝沢」というのは彼の生家の名前です。
そんな曲亭馬琴は生家が没落し、24歳の頃耕書堂で働くようになります(彼は当初山東京伝の元に弟子入り志願をしていたのですが、山東京伝が蔦屋重三郎に引き合わせました)。
蔦屋重三郎死後の1807〜11年にかけて『椿説弓帳月』を、1814年から『南総里見八犬伝』を手がけます。
曲亭馬琴は82歳で亡くなるまで執筆活動を続けました。
おわりに
こうしてみると、蔦屋重三郎の付き合いの広さを感じさせますね。
参考文献・参考サイト
- 車浮代
- 『蔦屋重三郎と江戸文化を創った13人』(PHP文庫、2024年)
- 安藤優一郎
- 『蔦屋重三郎と田沼政治の謎』(株式会社PHP研究所、2024年)