蔦屋重三郎が関わった人物 Part.2
はじめに
前回は蔦屋重三郎が関わった作家を紹介しました。
今回は蔦屋重三郎が関わった絵師を紹介します。
浮世絵について
江戸時代に人気を集めた絵のジャンルに浮世絵があります。
浮世絵とは日本の江戸時代に発達した絵画のジャンルです。
美人画(女性を描いた作品)、役者絵(歌舞伎役者を描いた作品)、風景画(自然や都市の風景を描いた作品)、風俗画(人々の日常を描いた絵)などジャンルは多岐に渡ります。
浮世絵は版画で大量生産され、安価に販売されたことで、庶民に広く楽しまれました。
ここでは、蔦屋重三郎が関わった浮世絵の絵師を3人紹介します。
①喜多川歌麿
喜多川歌麿は蔦屋重三郎が育てた絵師です。
元々歌麿は鳥山石燕(とりやま・せきえん。江戸時代当時最大の絵師の一門です)のもとで絵師を学び、北川豊章と名乗っていました。けれどもこの時はまだパッとしませんでした。
そんな豊章に目をつけ、プロヂュースしたのが蔦屋重三郎です。
1781年、豊章は兄弟子の作品の挿絵を任され、「喜多川歌麿」としてデビューします。
やがて、1793年から手がけた「美人大首図」のシリーズが大ヒットし、美人画の第一人者として一躍その名が知られるようになりました。彼の作品は女性の魅力的な表情と迫力ある上半身を描き当時の人々の注目を集めました。
重三郎の死後は春画や艶本の製作に携わります。けれども、その一方で歌麿の傲慢な性格も見え始めます。
そうした中、1804年に手がけた「太閤五妻洛東遊観之図」(豊臣秀吉が側室らと花見で羽目を外している絵)が幕政批判をしているとして処罰されてしまいます(当時の将軍だった徳川家斉は多くの側室がおり、贅沢な生活を送っていたためです)。
その2年後、喜多川歌麿は失意のうちに亡くなりました。
②東洲斎写楽
東洲斎写楽は本名・生没年不明の謎の絵師です。
正体は能楽師の斎藤十兵衛説、葛飾北斎説など諸説あります。
1794年、「市川鰕蔵の竹村定之進」など28作を蔦屋重三郎のもとで出版します。
そこから10ヶ月後に姿を消すまで145点以上の作品を世に送り出しました。
写楽の特徴は役者の表情をリアリティと迫力を持って描いたところにあります。
そのため、写楽の作品はモデルとなった役者やそのファンには不評でしたが、普段役者絵を買わない層から人気を集めました(写楽が描いていたのは若手や無名の役者が多く、寛政の改革で下火となっていた歌舞伎界の興隆にも一役買いました)。
明治時代、フェノロサなど海外の人物に評価されたことで、国内でも東洲斎写楽の評価が高まっていきました。
③葛飾北斎
葛飾北斎は日本を代表する絵師です。葛飾北斎は画号を度々変えていますが、ここでは葛飾北斎で統一して紹介します。
葛飾北斎は当初、勝川春章(江戸時代の浮世絵界をリードした絵師です)に弟子入りをしていました(ただし、多流派の絵も学んでいたことでのちに破門されてしまいます)。
葛飾北斎は鱗形屋版「吉原細見」の挿絵を任され絵師デビューを果たします。
やがて蔦屋重三郎が手がける黄表紙の挿絵も担当するようになりました。
蔦屋重三郎死後、曲亭馬琴とタッグを組んだり、西洋の技法を風景画に取り入れたり、北斎漫画の制作に取り掛かったりするなど精力的に活動しました。
そして、75歳の頃から「富嶽三十六景」を発表し始めます。
以後、90歳で亡くなるまで絵師として活動を続けました。
おわりに
今や日本を代表する絵師たちは、蔦屋重三郎が生み出したと言えますね。
参考文献・参考サイト
- 車浮代
- 『蔦屋重三郎と江戸文化を創った13人』()PHP文庫、2024年
- 安藤優一郎
- 『蔦屋重三郎と田沼政治の謎』(株式会社PHP研究所、2024年)