母の日本史

はじめに

本日、5月12日は母の日ですね。この日は母親に日頃の感謝を伝える日とされています。
そこで今回は歴史上の人物の母を3人紹介します。

豊臣秀吉の母

1人目は大政所です。大政所は豊臣秀吉の母です。

織田信長の死後、豊臣秀吉は天下統一に向け有力な戦国大名を次々と服属させていました。
しかし、いまだに徳川家康を服属させることはできませんでした。

そこで、秀吉は母の大政所を家康のもとに送ります。朝日姫(秀吉の妹。家康のもとに嫁いでいた)を見舞うという名目でしたが、実際は人質として家康の元へ送られました。けれども家康は、大政所が差し出されたのを機に秀吉に服従します。

こうして秀吉は天下統一へと近づいていきました。

徳川綱吉の母

2人目は桂昌院です。桂昌院は徳川綱吉の母です。

江戸幕府4代将軍徳川家綱が後継者のいないまま危篤に陥った時、綱吉が次の将軍候補に選ばれます。

そこで、桂昌院は綱吉が次の将軍になることを願い、願掛けとして好物の鰹を絶ちました。
その甲斐もあったのか、めでたく綱吉が5代将軍となりました。

ちなみに、徳川綱吉の政策として有名な生類憐みの令は、桂昌院が隆光(護国寺の僧侶)に綱吉が後継ぎに恵まれないことを相談したところ、「殺生をやめ生類を憐れむよう」アドバイスを受けたことから生まれました。

野口英世の母

3人目は野口シカです。シカは野口英世の母です。

野口英世は幼い頃、囲炉裏に手を突っ込んでしまい、左手がくっついてしまいます。

そこで、シカはその手で農作業は無理だからと英世に対し勉強を勧め、自らは身を粉にして働きました。

後に英世は手術によって左手が使えるようになり、医学の道を進んでいきました。

おわりに

母の力は偉大なり。