関ヶ原の戦い
はじめに
大河ドラマ「どうする家康」はもうすぐ関ヶ原の戦いが始まろうとしています。
そこで、今回は関ヶ原の戦いがテーマです。
関ヶ原の戦いとは
関ヶ原の戦いに至る経緯は次のとおりです。
豊臣秀吉は晩年、五大老と五奉行を設置しました。まだ幼い後継者の豊臣秀頼の後見を任せるためです。しかし、秀吉の死後、五大老の一人、徳川家康が勢力を伸ばします。これに反発したのが五奉行の一人の石田三成でした。
1600年、石田三成は家康が上杉景勝の討伐のため京都を空けた隙に挙兵します。
すると家康は上杉征伐から引き返し、両者は関ヶ原で激突しました。この戦いは西軍(石田三成が中心)の小早川秀秋が東軍(徳川家康が中心)に寝返ったことで、東軍の勝利に終わりました。
けれども、関ヶ原の戦いはあまり知られていないことが3つあります。
①西軍の総大将は毛利輝元
「関ヶ原の戦いの総大将は石田三成」というイメージがありますが、実際は違います。そもそも石田三成は関ヶ原の戦い以前に五奉行をクビになっていました。
そんな石田三成が家康に対抗するためには五大老クラスの人間を総大将にしなければ実力としても格としても釣り合いませんでした。
そこで選ばれたのが、五大老の一人だった毛利輝元でした。
②小早川秀秋は最初から東軍と繋がっていた?
関ヶ原の戦いで小早川秀秋が陣を張っていたのは東軍への楔となる場所でした。
ただし、小早川秀秋は山の奥に陣を設けており、その砦は西軍の方を向いていたと言われています。
家康による「問鉄砲」(家康が小早川秀秋の陣に砲撃して東軍へ与するよう圧力をかけたこと)よりも前に小早川秀秋は腹を決めていたのかもしれません。
③西軍にとっておきの秘策があった
近年、玉城という山城が注目されています。この玉城は眼下に山中村(関ヶ原のあった場所)を見下ろす位置に立地していました。
このため、石田三成は豊臣秀頼を玉城に迎えようとしていたのではないかと考えられています。もし秀頼の出陣が実現していたら、西軍の士気は上がり、家康は負けていたのかもしれません。
しかし、毛利輝元や淀殿(秀頼の母)が秀頼を大坂にとどめたため、秀頼の出陣は実現しませんでした
おわりに
実は関ヶ原の戦いでは家康も石田三成も「秀頼のために」戦っていました。
つまり関ヶ原の戦いは「天下分け目の戦い」ではなく、豊臣家に従う者同士の勢力争いだったのが本当のところでしょう。
参考文献・参考サイト
- 歴史ミステリー研究会
- 『昔の教科書とはこれだけ変わった 日本史の新常識』(彩図社、2020年)
- 『歴史人』11月号
- (ABCアーク、2022年)
- 歴史探偵
- 「情報戦 関ヶ原」(2022年12月放送)