あやかりの日本史
はじめに
今年はWBC、ワールドカップと大々的なイベントが続いた年ですね。
こうしたイベントがあるたびに活躍した選手やスポーツにあやかろうとする人々が現れます。このことは今も昔も変わりません。
昔の人があやかったもの
昔であれば人々は名字や官職にあやかっていました。例えば、織田信長は「平」を名乗ったことがあるし、徳川家康は自称源氏の子孫です(新田氏の子孫ということらしいですが、真相は不明です)。
また、官職は当初、天皇から与えられるものでしたが、やがては「右衛門」「左右衛門」など勝手に官職にゆかりのある名前を名乗る者も現れました。
そこで、今回は他にも昔の人があやかったものを紹介します。
①御成敗式目
御成敗式目は鎌倉幕府3代執権の北条泰時が作った法令です。御成敗式目は武士の政治の手本となり、これ以降の武士政権は御成敗式目にあやかります。足利尊氏は室町幕府の政治方針を御成敗式目に則ると決め、戦国時代には戦国大名が御成敗式目を参考に分国法を制定しました。
②赤穂事件
赤穂事件とは、赤穂藩主浅野長矩が吉良上野介に斬りかかって切腹を命じられた翌年、彼の家臣だった47名の浪士が吉良上野介を討ち取った事件です(参照「見せかけの日本史」)。この事件は家臣の主君への忠誠心が話題となり、あやかる人々が出てきました。実際にこの事件の直後には赤穂浪士のコスプレが流行します。
加えて、竹田出雲(江戸時代の人形浄瑠璃の脚本家)は『仮名手本忠臣蔵』という赤穂事件と南北朝の動乱を織り交ぜたような脚本を著しました。
③楠木正成
楠木正成は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した人物です。皇居外苑には楠木正成の銅像があります。
楠木正成は後醍醐天皇のために忠義を尽くして戦ったことから、幕末には彼にあやかろうとする人々が大勢いました。
例えば、伊藤博文は楠木正成の話をするときにはいつも「吾輩の好きな」とか「我輩の崇拝している」という言葉を使っていました。
また、佐賀藩では正成顕彰を目的とする「義祭同盟」が結成されました(そのメンバーの一人に大隈重信がいました)。
さらに、坂本龍馬も楠木正成を熱心に信奉していました。正成を讃える和歌を詠んだほか、龍馬の腰にさしている短刀は楠木正成の模造短刀だったとする説もあるそうです。
おわりに
「長いものに巻かれる」「何かに乗っかる」のは世の常なのかもしれません。
参考文献・参考サイト
- 一坂太郎
- 『幕末・英傑たちのヒーロー 靖国前史』(朝日新聞出版、2008年)