田沼意次

はじめに

最近の歴史の教科書では、享保の改革と寛政の改革の間に田沼意次を勉強するようになっています。

ただし、この人物は「ワイロ政治」「風紀を見出した」というマイナスイメージを持たれることが多いです(実際、「享保の改革〜天保の改革までの政治で誰を評価するか」というアンケートを毎年実施すると、田沼は3位か4位になります。理由も「ワイロは良くない」といった趣旨の内容が多いです)。

しかし、近年、田沼に対する評価が変わりつつあります。

田沼意次が登場した頃の江戸幕府

江戸時代中期になると、幕府は財政難に直面していました。
新田開発などで農業の生産性が上がった結果、米の値段が下がり、武士の収入が下がったことと、身分にふさわしい格好をしたり贅沢をするようになった結果、支出が増えたことが原因です)。

そのため、財政難に対処するべく、徳川吉宗は享保の改革を実施します。けれどもその内容は「年貢をたくさん集める」という農民にとって負担の大きいものでした。

田沼意次の政治

そこで、田沼意次は「商業」に注目して財政の立て直しを図ろうとします。

例えば、株仲間を積極的に承認することで、その分株仲間から運上・冥加金(証人に対してかける税金のようなものです)を集めようとしました。

また、長崎貿易や専売制(特定商品の仕入れ、販売を独占する制度)を奨励します。当時貿易で輸出できる銀は上限が決まっていたので、それ以上の分は銅や俵物(いりこ、ほしあわび、ふかのひれといった海産物のこと)を輸出することで輸出をすすめました。

さらに、蝦夷地や印旛沼・手賀沼の開発にも乗り出していました。

田沼政治の終わり

しかし、商業への転換は賄賂の横行を許してしまうところがありました(田沼は色々な人材を登用しており、その中には賄賂を受け取ってしまう者もいたようです)。

また、田沼にとってはタイミングの悪いことに、浅間山の噴火を機に天明の飢饉が発生してしまいます。田沼は農業対策にはさほど力を入れていなかったため、百姓一揆や打ちこわしが多発しました。

結局、田沼意次は当時の将軍が亡くなったのを機に失脚し、彼の一派も天明の飢饉の責任を取らされる形で失脚しました。

おわりに

人が着目していないところに注目したり、何か新しいことを行おうとすると、時期が早かったりして人々に理解されないことがあります。
もしかしたら田沼もそのような類の人間だったのかもしれませんね。

参考文献・参考サイト

山本博文
『こんなに変わった! 日本史教科書』(宝島社、2017年)
山本博文ほか
『こんなに変わった歴史教科書』(新潮社、2011年)
森下賢一
『骨肉 父と息子の日本史』(文藝春秋、2005年)
井沢元彦・和田秀樹
『日本史汚名返上 「悪人」たちの真実』(光文社、2014年)
『歴史人』2022年11月号
(ABCアーク、2022年)