承久の乱
はじめに
今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」はいよいよ承久の乱が近づいています。
そこで今回は承久の乱について朝廷、幕府双方の立場から見ていきます。
朝廷の立場
まずは朝廷の立場を見ていきます。後鳥羽上皇が幕府と戦う決意をさせた要因が3つありました。
1つ目は朝廷の影響力です。朝廷は官職(平清盛が任命された太政大臣や源頼朝が任命された征夷大将軍など)を与える権限を持っていました。また、今まで朝廷に逆らった者は滅亡の運命を辿っていました。
2つ目は後鳥羽上皇直属の武力です。当時、後鳥羽上皇は上皇の身辺警護などを行う西面の武士を設置していました。加えて、畿内周辺には上皇や朝廷に仕える武士がいました。
3つ目は三浦氏の存在です。後鳥羽上皇は三浦胤義(三浦義村の弟)を味方につけており、胤義が義村の説得にあたっていました。三浦氏を引き込むことで鎌倉幕府が分裂することを狙いました。
以上の要因から、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣・官宣旨を出しました。
鎌倉幕府の立場
次に、鎌倉幕府の対応を見ていきます。実は幕府もすぐさま朝廷と対峙したわけではありませんでした。幕府内部でも攻めるか守るかで意見が分かれていたのです。
けれども、大江広元や三善康信が迎撃は不利であるとして早期の攻勢を主張しました。加えて、北条政子は御家人に向けて演説をした(実は政子は簾中にいて直接御家人に演説したわけではありません)際、後鳥羽上皇の標的が鎌倉幕府であるかのように伝え、現状の危機を煽ることで御家人の結束を図りました。
その結果、幕府は朝廷との決戦に踏み切ります。幕府軍は東海・東山・北陸の三手に分かれ、京都を目指します。幕府軍は朝廷軍を破り、入京しました。
こうして承久の乱の決着がつきました。
承久の乱後の朝廷と幕府
承久の乱後、上皇方に与した者の多くが処罰されました。後鳥羽上皇も例外ではありませんでした。後鳥羽上皇は隠岐へ流罪となり、その地で生涯を終えました。
一方、幕府は京都に六波羅探題を設置し、西日本にも地頭を置くなど勢力を拡大させました。その後、鎌倉幕府草創期を支えた北条義時、北条政子、大江広元が亡くなると、三代執権北条泰時のもとで新体制が始動しました。
おわりに
「鎌倉殿の13人」では承久の乱がどのように描かれるのでしょうか。楽しみです。
参考文献・参考サイト
- 関幸彦
- 『敗者の日本史6 承久の乱と後鳥羽院』(吉川弘文館、2012年)
- 坂井孝一
- 『承久の乱』(中央公論新社、2018年)
- 坂井孝一
- 『鎌倉殿と執権北条氏 義時は如何に朝廷を乗り越えたか』(NHK出版、2021年)