元寇

はじめに

先日、東京藝術大学大学美術館の特別展「日本美術をひも解く」を観に行ってきました。この展示の目玉の一つに「蒙古襲来絵詞」が展示されていました。
そこで、今回は元寇がテーマです。

元寇について

元寇とは元が日本に攻めてきた出来事のことを指します。かつて元寇は以下のように説明されてきました。

当時、アジアではモンゴル帝国がユーラシア大陸を席巻していました。5代目皇帝のフビライ=ハンは国名を元と改め、高麗(当時朝鮮半島にあった国)を従え、南宋(当時中国大陸南部にあった国)を攻略しようとしました。

そうした中、フビライ=ハンは日本に服属を迫る国書を出します。しかし、当時執権だった北条時宗は国書の返答を無視しました。

そこで、フビライ=ハンは日本に二度軍を派遣しました。一度目の戦い(文永の役)で日本軍は戦法の違いに苦戦します。しかし元軍は暴風雨に襲われ、撤退しました。二度目の戦い(弘安の役)では再び暴風雨が元軍を襲います。その結果、元軍は壊滅し撤退しました。

しかし近年では上記のような元寇の通説に疑問が持たれています。

①文永の役の暴風雨

確かに弘安の役は暴風雨の事実は確認できます。しかし、文永の役には暴風雨が吹いたとは考えられないと言われています(文永の役は現在の11月に行われており、台風シーズンを過ぎているためです)。
そのため近年、文永の役での元軍撤退の理由は様子見説や元軍(といっても高麗軍も含まれていました)の内部対立など諸説考えられています。

②地味に頑張っていた御家人たち

弘安の役では暴風雨が元軍を襲ったのは事実です。しかし、御家人たちの頑張りも無視することはできません。石塁を設け元軍が上陸するのを防ぎ、敵を見つけたらすぐ攻撃する戦法に変えていました。

一方、元軍は馬に乗って戦うことを得意としていましたが、輸送の際のストレスにより実際に使用できた馬は少なかったと考えられています。また、元軍が乗っていた船は底が平底になっており、船酔いしやすい構造でした。

こうした元軍のコンディションの悪さも日本に有利に働いたのかもしれません。

③幻となった三度目遠征

実は、フビライ=ハンは三度目の日本遠征を考えていたと言われています。しかし、南宋や大越国(現在のベトナム。実は元は大越国にも遠征していました)で激しい抵抗運動が起きていたこともあり、結局は実現しませんでした。

なお、鎌倉幕府も三度目の元軍襲来を予測していました。そこで、北条氏が守護の役職を独占します。その一方、十分な恩賞はないにもかかわらず、御家人に軍事負担を継続させました。この対応は結果として、御家人の鎌倉幕府に対する不満を高めることになりました。

おわりに

ちなみに、「蒙古襲来絵詞」の文永の役の場面に描かれている三人の元軍は後世の加筆であると言われています。元軍の説明も変わりつつあります。

参考文献・参考サイト

歴史ミステリー研究会
『昔の教科書とはこれだけ変わった! 日本史の新常識』(彩図社、2020年)
『歴史人』11月号
(ABCアーク、2022年)
歴史探偵
「元寇」(2022年7月16日放送)
宮内庁ホームページ
(https://www.kunaicho.go.jp/culture/sannomaru/syuzou-06.html)(参照:2022-10-16)
東京藝術大学大学美術館ホームページ
(https://museum.geidai.ac.jp/exhibit/2022/08/bi-no-tamatebako.html)(参照:2022-10-16)